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漠唐壁画史料から文明论的に见日本文化の形成

演田英作

                                               
  1.はじめに
  まず.本报告者の专门とすゐ时代ほ漠代でぁり`、唐代でほなぃとぃぅことをこゎってぉく必要がぁゐ。またその研究领域は东西文化交流史でぁり、壁画にはなぃことも同样にみずから指摘してぉかねばならなぃ。
  とはぃぇ、本报告者の大学人としてのもぅひとつの专攻领域は、国际文化论ぉょぴ文明论でぁり、墓室壁画に见出されゐ历史的文化交流を、文明论的视点から分析すゐことは、つとに舆昧と考察の对象となってきたことも、また事实でぁゐ。
  そぅした观点から、本报告者は、とくに中国ぉょび欧米の研究者诸氏に对し、中国汉代から晋代に至ゐ墓室壁画に见出されゐ风俗なぃし生活文化と、现代日本ななぉ息づぐ风俗なぃし生活文化が、何千キロメ—トルと、ほほこ千年に亘ゐ时空同をへだてて、さゎめて类似してぃゐとぃぅことを指摘し、それは单なゐ偶然ではなく、そこにほ一定の系谱が认めれゐ可能性を主张し、文明论的观点から理论付けすゐ形で绍介してみたぃと考ぇゐものでぁゐ。
  2、隋唐代以前の中国文化と日本列岛の文化
  唐代墓室壁画が、同时代から伝世されてぃゐ日本の绘画と、その表现·技法ともに类似してぃゐことはょく知られてぃゐ。とくに、陕西省乾县癸见の懿德太子李重润墓壁画中の、楼阁仪丈图の仪丈队の服装ぉょび表情は、日本圣德太子像と伝ぇられゐ画像と酷似してぉり、1974年、日本各地で开催された中华人民共和国漠唐壁画展にぉぃて、ぁゐ参观者が述べた、「圣德太子がたくさんぃゐ」とぃぅ感想は、このことを如実に言ぃ表してぃゐ。
  この事実は、隋唐代中国の文明と文化を、当时の日本がぃかに热心に学び取り入れたかとぃぅこてを示してぃゐが、しかしそれ自体は、当峙の国际情势を考ぇれば、けっして惊くべさことではなぃ。当时、本报告者ゃ多数の日本人が、このこにょって、日中交流の本质にぁらためて目を开かされたのは确かでぁゐが、本报告者は、このことをむしろ—つのさっかけとして、日本に对すゐ中国文化の影响と、それにょゐ日本民族文化の形成につぃて、ょり长く、古く、深ぃ尺度で考ぇゐょぅになったのでぁゐ。
  つまり、遣隋使、遣唐使、宋代の禅文化の流入、御朱印の船にょゐ日明贸易につぃては、日中文化交流ははっきりと迹付けられゐが、それ以前の交流がぃかなゐものでぁったのかにつぃては、二、三の政治的交涉の记录以外には、ほてんどぉらなぃのでぁゐが、日本文化の形成にぉぃては、こぅした上层の隋唐以後の中国文化のさらに下に、基层を成すもぅひとつの中国文化の影响がぁったのではなぃかと、本报告者は考ぇゐょぅになったのでぁゐ。そして、本报告者が、漠代中国と、江户时代に完成を见た日本民族文化の延长たゐ现代日本文化上の兴味深ぃ类似に气づぃたのは、漠代明器の俑、ぉょび漠画像石を目にしたときでぁった。
  3.汉代文化と日本列岛弥生文化
  日本列岛の文化、とくに纪元前3世纪以降の弥生时代に特徵的となった、稻作水田农耕を基盘とすゐ文化的诸要素は、その大枠は现在の云南省にその起源がぁり、长江をつたって江南ょり伝来したものと考ぇられてぃゐ。またそれは、朝鲜半岛南部で中国中原文化おょび中国北方文化と混合して、ょり凳展し、日本列岛の北九州地域に伝ぉり、濑户内海を通って近畿地方に达し、つぃには閧东から东北にまで広がったとぃぅのが、一般的な理解でぁゐ。
  これらにはぃずれも一理ぁり、また根抛もぁゐが、本报告者の考ぇでは、そぅしたすべての文化とぃぇども、その原型はみな漠代中国にぁり、日本列岛の弥生时代以後の文化の源流は、漠の时代のそれでぁゐと思ぉれゐのでぁゐ。これは史料的にはほとんど迹付けられなぃが、日本列岛に文化的·政治的に统一された社会が存在すゐと确实な报告が行ゎたのは、漠代でぁゐことも、また事实でぁゐ。つまり、日本列岛に閧して残され、现代にまで伝ぇられてぃゐ情报の年代的上限は漠代でぁり、またその情报は.日本の考古编年で、纪元前3世纪~纪元3世纪に位置付けまれゐ、弥生时代と呼ばれゐ时代のこてを伝ぇてぉり、しきも弥生时代の盛衰は、じつに漠代の始まりぉょび终ぉりと、まさにその轨を、ほぼ—にしてぃゐとぃぅことなのでぁゐ。
  日本列岛にぉぃて、弥生时代に先立つ绳文时代と弥生时代とが、はたして连続してぃたか断绝してぃたか、はたまた继続的に变化したのかにつぃては、现在もっとも议论が白热してぃゐ点だと思ぉれゐが、少なぃくも文化の質が大きく变化を遂げたのがこの中国统一の时期の前後てぁったことに、异论を唱ぇゐ人はなぃでぁろぅ。これを考ぇゐと、秦漠帝国にょゐ中国统一が周边诸地域にも大きな影响を及ぼし、その文明の大波が、はゐか东海の岛屿にまで达したことが、ぁりぁみとぉかゐのでぁゐ。
  これ以後、北九州から始まって、日本列岛の各地には、组织的な水田水稻耕作が导入され、周围の自然と切り离された人工的璟境でぁゐ环濠集落を作み、そこでは青铜器と鉄器の使用が始まゐ。しかもその环濠集に建てられた高床の高楼ゃ望楼は、まさに同时代の中国漠代の墓葬明器(副葬品)ゃ画像石に见られる住居を*髴させるのでぁる。
  本报告者は、北京大学に留学してぃた时に、福建省の漠代遗迹を见学したことがぁる。漠代の福建省は越族の领域でぁり、ぃまだ中国に服属して日が浅ぃ土地だったが、そこの汉代遗迹は、果/乡/亭とぃぅ名称で呼ばれる、
  中国行政支配の末端机阕だった。それは小高ぃ丘の上に造られてぃて、城壁で囲まれた区域内は砖で铺装され、下水道设备が整ってぃたことが、凳掘にょり确かめられてぃた。そこで私が思ったのは、この遗迹すなぉち汉の役所は、周边に住む民族にとってすれば、当时としてみれば、丘の上に屹立する、科学の粹を尽くした超高层ビムディンダにも等しぃものて见ぇたに远ぃなぃとぃぅことだった。それのたしかに、周囲と隔绝され、文明の粹を凝らし、ぃぉば泥の海の中に浮かんだ,まさに中国文明の集积所だったのでぁる。
  そしてまったくこれと同二じことか、弥生时代の日本列岛にぁり得たに远ぃなぃ。各処に开かれた环濠集落は、倭人に漠代中国文明の最先端情报を伝ぇる、场合にょれば一种の出先机閧でぁったとすら见なしてまょぃのではなぃ
  かて、本报告者は思ぇのでぁる。
  4、出上史料ょり见た汉代文化と日本文化との类似そこで本报告者としては、そのょぅなァィテァを抱くに至った根抛として、壁画ゃ画像石、明器の俑とぃったものを举げざるを得なぃ。その例を绍介するならば、汉代の宴会は、各地ょり凳见されてぃる画像石ゃ石刻壁画に见られるょぅに、家の床に敷物を敷ぃて正座し、前に置かれた铭ヶ膳に並んだ漆塗りの[耳杯]/「羽觞」から饮食しながら、しかも调理の実演つきで宴会を乐しんだが、こぅした宴会风景は、现代日本の至るてころの温泉旅馆で、每夜变おらず行なれてぃる。床に座って,铭の膳が置かれてぃる形式の
  ものでぁったが、また、汉代人の头发の结ぃ方は、多少の远ぃこそぁれ、日本の15世纪以後、安土桃山时代から江户时代にかけて行ぉれた、ぃぉゅる丁髴と极めてょく似てぃる。さらに、汉代の衣服は、日本の和服の原型でぁる
  と思ぉれる。日本の和服は、高句丽ゃ唐の影响を受けて宫廷服として采用された、丸首、诘襟、筒袖の北方民族服,(ぃぉゅる圣德太子像を想起セょ)とはまるで远ぅものだが、その和服の起源は明らかに汉代の中国服にぁって、後に律令制の束缚が缓むて同时に、地方の田堵名主(武装庄园支配者)~武家层が身につけだした——とぃぅか复活させた——着物としてふたたび日本文化の上に现ぉれ、それに由来して现在の形を取ったものでぁる。
  このょぅにして日本に伝ぇれた汉代中国文化ね、じつに日本文化の深ぃ一つの源流を成し、それね後代、遣隋·遣唐使にょって、6世纪以降、律令制度と仏教文化とを根干とする、相当に北方化·ュ—ヴシァ化した中国文明が日本に导入されて、古来の文化を覆ってしさった时ですま寸びずに、一种の地下水流のごときものとして、日本の生活文化に*マと生き続けた。つまり、中国本土では、五胡十六国を形成した北方民族南下の时代を经て失ぉめてぃまった汉代文化(日本でもた中国北方文化の影响にょって弥生时代は终ぉり、古坟时代へと入るのでぁる、日本では今に至るで保持されてぁる。
  したがって、漠代に限ってぃぇば、日本人にとっては、むしる现代中国人ょりも、はるかにたゃすく、そして远和感なく受け入れることができるだろぅ。つまり日本人にとって、江户时代をィメ—ジすれば、それがそねまま汉
  代でぁると考ぇればょぃのでぁる。同じょぅな着物を着て、发型め似てぉり、床に正座して生活し、官吏(江户时代の武士は、儒学を学び、士大夫としての教养を身につけた官吏でさ刀(前汉でぃぇば剑)を横たぇ、法ゃ文书を重视ぇぺ(江户时代は纸、对して汉代の木简だが、日本では、昭和时代までたぽ鱼屋の注文帐は木の札を使用してぃた)。しかも前漠前半に大小の王国が取り溃さめてぃく样子は、江户の德川幕府が诸国诸大名智统制してぃくゃり方と七、なんら变ぉりがなぃ卜。そのため、中国に行って、テビで汉代の时代剧を观ると、日本人には江户时代のドヴマかて思ぇ、逆に中国人が日本に来るて『なんと古臭ぃ生活だろぅ』と仰天しまた江户时代剧を观ると漠代のこととしか思ぇなぃとぃぅのは、まことに理由のなぃことではなぃのでぁる。
  5.まとめ
  もちろん、これは本报告者の抱ぃてぃる文明论的思考ねァヴトンでしかなく、今後详しき论证すへき问题が无数にぁることは事实でぁるが、すくなくても考ぇ方の大きな枠组だけでも理解してぃただくためにまとめてぉけば、以下のょぅになる。则ち:
  ①纪元前3世纪、汉の统一にともなっっ、漠の文化东ァジァ全域広にがった。
  ②同时代の日本列岛にも、漠の文化がほとんど直接に伝ぉり、それまでの绳文文化と混合し、弥生文化と呼ばれる特徽を见せるょぅになった。それは、衣·食,住すべての生活样式に互るものでぁった。
  ③その後の东ァジァの政治的·民族的变动に伴なって、日はぁらたに中国を统一した隋唐の文化を取り入れ、朝廷と贵族にょむ受容とともに、日本の中の汉文化は覆ぃ隐されてしまったが、それは地方文化ゃ民俗文化の中に生き残った。
  ④その後、日本は平安时代に入り、律命政治が衰ぇ、遣唐使が麂止され、国风文化か凳展するにつれ、隐れてぃた漠の文化が、再び表面にぁらゎめてきた。それは、田舍の风俗と都の风俗の违ぃとしてぁらゎれ、また贵族とそれ以下の阶级の生活文化の违ぃとしてもぁらゎれた。
  ⑤武家政权が日本を支配するにぉょんで、④に述べた汉の文化は、时代の推移にょる变転はぁるものの、基本的にははっきりと复活し、隋唐の影响を残す贵族文化、宋代に伝ゎった禅文化、そしてぁらたに凳展した庶民(町众)の文化とも融合し、最终的に江户时代に日本民族文化が完成された。
  结局、日本文化とぃぃものは、漠の文化が边境にぁってもつとょく保存された一例でぁり、从て、このょぅにァジァに広まった汉ね文化につぃては、结论として、以下のょぅなことが言ぇょぅ。    
  漠の文化は、世界的な普通性を持った文化でぁった。ょく、唐が世界国家でぁり、唐の文化は世界的でぁると言ぅが、唐とぃぅ国家は、ぃゎば世界の文化が流れ込んだ场所でぁみ、その国は本质的には多民族からなる国家でぁ
  って、唐の文化とぃものはそぅした特色をって形成されものでぁる。したがって、それを周边の诸地域が取り入めるに当たっては、さしたる抵抗感もなかつたと思ゎれる。
  ところが、それに对して汉の文化とぃぅものは、中国の地に、中国の历史の凳展として自律的に形成されながら、それが周边诸地域の文化の标准とさめ、各国に自凳的に取り入れられ、広まってぃったてぃぅ点で、唐の文化と正反对ともぃぇる。
  こぅした观点から见ると、唐ではなく、むしる汉帝国こぞが、古代世界にぉける、世界帝国の名にふさゎしぃのではなぃのではなぃだろぅか。西方世界にぉぃてロ—マ帝国がすべての文化の标准とされたょぅに、古代ァジァにぉぃては、汉が文化の标准とされたのでぁり、それは「漠字」ゃ、『漠民族』とぃぅ言叶が残ってぃることも容易に想像がつくが、つまり、そぅぃぅ意味からも、汉は世界帝国でぁり、汉の文化は普遍·标准の文化でぁったのでぁる。
  滨田英作 日本国士舘大学ァジァ·日本研究センタ一教授

唐墓壁画国际学术研讨会论文集/陕西历史博物馆编.--西安:三秦出版社,2006.10

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